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今日のニュースはやっぱりこれっきゃない ・・・
全く政治家はすっかり信用が出来なくなってる。
「北京オリンピック」を考える。
5月6日20時10分配信 ツカサネット新聞
聖火リレーにおける混乱のニュースが毎日のように世界を駆け巡っている。
そして、それを見た多くの人々が「北京オリンピックはもはや“平和の祭典”などではない」「中国でのオリンピック開催は失敗だった」と嘆いていることも、同時にあちらこちらから伝わってくる。
たしかに、これだけさまざまな問題が噴出すれば、そのように思えてしまうのも無理はない。しかし、違った視点からこの北京オリンピックというものをとらえてみることはできないであろうか。もし、オリンピックが今年中国で開催されることがなかったらいったいどうなっていたであろうか…と。
振り返れば2001年7月にモスクワで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会において2008年のオリンピック夏季大会が中国・北京で開催することが決定したわけだが、それ以降、世界の視線は確実に中国という国に強く注がれるようになっていったはずである。
そしてそのような流れのなかで、中国からの輸出品(中国産の食品・薬品・玩具など)に対する安全性の問題や、ダルフール問題における中国政府の対応といった国際的な問題点、あるいはチベット問題に代表されるような中国国内における民族的な諸問題の存在といったものなどが大きく世界中でクローズアップされてきたはずである。
もし仮に、2008年のオリンピックが中国で開催されず、世界中の視線があまり中国という国に注がれてこなかったとしたら、今述べたような諸問題は今日ほど大きな問題として世界中のメディアに取り上げられることもなかったかもしれない。そして、もし中国からの輸出品に対する諸々の安全性に関する問題がこれだけ世界中で声高に叫ばれることがなかったとしたら、それらによる被害はさらに大きくなっていたかもしれないのである。
あるいはまた、チベットにおける騒乱は、オリンピックの開催により世界中の視線が中国に向けられているという理由から、まさにこの時期を狙って起こされたものであろうが、これもまた、もし今年中国でオリンピックが開催されることがなければ、彼らの心の叫びともいうべき声をわれわれは聞きとめることができなかったであろうし、中国国内にいまだそうした問題が燻ぶり続けているという事実さえもわれわれは知り得ることができなかったかもしれないのである。
また現在、中国ではオリンピックの開催に合わせて必死になって自国の「文明化」(≒文化的な向上)に取り組んでいる。日常的な生活の場面においてきちんと順番を守って並ぶことの重要性を説いたり、環境・衛生面に対する意識の向上といったものを懸命に呼びかけるなど、「文明化」への啓蒙活動に非常に力を注いでいる。それを「オリンピックのために必死だな」と冷ややかな目で冷笑するのは簡単だが、中国という国のこれからを考えてみた場合、このオリンピックの開催を契機とした「文明化」への促進といったものは非常に大きな意味を持っているように思われる。まだまだ真の意味での「文明化」には程遠いが、少しずつ、いろいろな意味で人々の意識が変わってきているのもまた事実である。
オリンピックというイベントが、今日のように良くも悪くも世界中から注目される世界的な一大イベントとなっているということは、それだけその開催国に対しての厳しい視線が世界中から数多く降り注がれるということでもある。そしてそれによって、開催国の国家としての実像がより明らかになったり、その国が抱えている諸問題が明るみに出たり、あるいはまた、オリンピックの開催を契機として自国の文化的の向上などを促進させたりと、期せずしてそれは多くのさまざまな“副産物”をも同時に生み出すことにもなっていよう。
筆者はこれまでオリンピックというイベントを、単に商業主義的な金儲けのための道具としてしか見てこなかったが、もしオリンピックという一大イベントにこのような作用ないし役割といったものが見出せるならば、そこには「平和の祭典」という謳い文句で踊らされる商業主義的なスポーツイベントとしてのオリンピックではなく、それ以上にはるかに大きな意義をもった世界規模でのイベントとしてのオリンピックといったものがそこには見出せるような気がしてならない。もちろん、スポーツそのものに「政治」を持ち込むのは歓迎されるべきことではないが、あくまでもその“副産物”として、開催国に関連するさまざまな問題点がわれわれの眼前に表面化、顕在化してくることは、そこにある問題を解決する第一歩として非常に重要になってくるのではなかろうか。
陸上や水泳などといった個別の競技は、それぞれの世界大会において競うこともできよう。そのようななかで、あえて4年に一度、オリンピックという世界的な一大イベントを開催する以上は、オリンピックがオリンピックとしてのアイデンティ(存在価値)を持っていなければならない。そしてそれは、商業主義的な金儲けの道具でも、国家の発揚やナショナリズムの高揚のためといった政治的な道具でも決してないはずである。
オリンピックが有するオリンピックとしてのアイデンティティ(存在価値)は、奇しくも今回さまざまな問題を内包している中国という国での開催によって明らかになったように、開催国が抱える諸問題を世界中の人々が共通して認識したり、開催国における文化的な向上を促進させるといったことにこそあるのではなかろうか。
目下、聖火リレーが世界各地で大混乱のなか行われているが、大混乱になっているというその事実こそ、そこには開催国に関連する何らかの大きな問題が顕在化している証ともいえよう。そして上記のような観点から見てみた場合、多分に逆説的ではあるけれども、北京オリンピックはすでにその役割を十分に果たしているといえる。批判ばかりが目立つ今回の北京オリンピックであるが、見方を変えれば、ある意味ですでに「成功」を収めていると言ってもよいのかもしれない。
「平和の祭典」としてではなく、「平和のための祭典」としての重要な役割を、これからのオリンピックは担っていくことがあってもいいのではないかと考える。そのように考えると、多くの問題を内包し、未だ発展途上にある中国という国でオリンピックを開催するということは、決して「間違い」でも「失敗」でもないと考えたい。むしろ、オリンピックというイベントに対するわれわれの意識の方を、これからは変えていく必要性もあるのではないだろうか。
今回の中国でのオリンピックのように、敢えて発展途上の国や多くの問題を内包した国においてオリンピックを開催する。逆説的ではあるが、今後の世界の発展、世界の平和というものを考えたさい、このような発想の転換もあっても良いように思えるのだが、どうであろうか?
(記者:94。)
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引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080506-00000033-tsuka-soci
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